長い夜に

 ぼくは、夜の居室を見回っていた。人と接するのが少し苦手なぼくは、この夜の時間帯が好きだ。銀縁眼鏡をかけているのも、人との間にガラスの壁を作るためだった。
 岩橋マリさんの部屋を回った時、寝ていると思った岩橋さんがぱっと目を開けた。見えなくなった目でぼくをじっと見、声をかけてきた。
「夜は長いですね」
 細くて消え入りそうな声だった。
 岩橋さんは今年百二才になる。ここのホームでは最高齢である。ここに入所した時から目はほとんど見えなかったらしい。入所当時は自分で歩くこともできたが、このごろではそれももうできなくなっている。
 ぼくが車いすを押して庭に出ると、静かな笑顔をうかべる。きっと、ぼくには感じない何かを感じているんだろう。その笑顔が、なぜかぼくは大好きだった。だからぼくは、他の入所者には申し訳ないと思いながらも、手が空くと、岩橋さんの車いすを押して庭に出た。
「どうしたんですか? 寝られないのですか?」
 ぼくはとなりの部屋に響かないように、声をひそめて岩橋さんの耳元でいった。
「あなたには、いつもやさしくしていただいて、ほんとうに感謝しています」
「そういっていただけると、ぼくもうれしいですよ」
「私にはね、やすらかに眠ることができない思い出があるんですよ」
 岩橋さんは、見えない目を天井にむけた。
 ぼくは、いつもおだやかな岩橋さんでもそういうことがあるのかと少し驚いた。
 岩橋さんの話を聞くために、ぼくはいすを引き寄せ座った。
「少女のころね」

                                    一

 岩橋さんの声が少し力強くなった。
「犬を飼っていたの。シロっていう名前だった。気の弱い犬でね、だれかが頭をなぜようとしても、しっぽをまいておなかのほうにいれてしまうような犬だったの。いつも人間やほかの犬を恐がって、私の後ろを隠れるようにして散歩をしていたわ」
「岩橋さんが、唯一の信じられる人だったのでしょうね」
 少女のころの岩橋さんを想像してぼくは微笑んだ。きっと、マリさんという名前がぴったりの少女だったのだろう。
 岩橋さんは、そうそうと頭を動かした。
「ある日、父の都合で転宅をするようになったのよ。さて、シロをどうしようかという話になってね、連れて行ってもいいけれど、長旅はかわいそうだということになったの。その時、たまたま父の友だちが駅二つぐらいの所に住んでいたから、その人に飼ってもらおうということになったのよ」
 岩橋さんはおしだまったまま、天井をにらみつけていた。
「それはよかったですね」
 ぼくは、それでこの話はおしまいなのだと思った。お年寄りの話は、時々どうしてこれが大切な話なんだろうと不思議に思うぐらい単純な話を、重大な話としてすることがある。しかし、他人がどう思おうとも、本人には、かけがいの無い話であることにはまちがいない。ぼくは、この話はこれで終わったと思っていすから立ち上がろうとした。
「でもね」
 岩橋さんの話は続きがあった。
「何年かたって、私は前に住んでいた家を訪れたことがあったの。その時、知り合いの人から聞いた話があるの。シロがだれもいない家の門の前でじっと座っていたという話。何日も何日も、私たちが帰ってくるのをじっと待ってたんですって。父の友だちが少し目を離したすきに、シロは逃げてしまったのよ。ずいぶん父の友だちもシロをさがしてくださったらしいけれど、なぜか、みつからなかったの」

                                    二

 岩橋さんの目から涙がこぼれた。
「今思っても、かわいそうなことをしたわ。連れて行くべきだった。かわいそうに、私は信頼をうらぎってしまったのよ。できるならもう一度シロにあいたい。あってあやまりたい。私が悪かったっていってやりたい……」
「そうですか」
 ぼくは、そういってから何気なく眼鏡をはずした。頭のすみが少ししびれている。ふっと口が動く。
「実は、ぼくはそのシロの生まれ変わりなんです」
 なぜこんなことをいってしまったのか、わからない。
「ああ、そうなの。そうだったの……」
「ぼくも、どうしてマリさんがぼくを置いて行ってしまったのか、そのわけをずっと聞きたいと思っていました」
 ぼくは、何をしゃべっているんだろう……。
「ぼくは捨てられたのか、と思う日もありましたが、いや、あのマリさんがそんなことをするはずがないと思い直しました。絶対にマリさんはいつかぼくを迎えに来てくれると思っていました。だから、ぼくはあの家から動いちゃいけないんだと思っていました。おなかがすいても……。雨にうたれても……。だれかがやさしくしてくれても……。何かに追われても……」
「かわいそうに」
 マリさんはそういって、ベッドの上に置いていたぼくの手をなでた。指は細く、枯れ枝のようだった。
「ああ、シロの手だわ。シロだわ。長い間気づかずごめんなさいね。そういえば、あなたが私のそばに来た時、いつも私はシロを思い出したわ。私を許してくれる?」
「ええ。だって、ずっと待ってたマリさんが、やっと、ぼくを迎えに来てくれたんだもの」
「ああ、よかった。今、気づくことができてよかった。お前にあやまることができてよかった」

                                    三

 マリさんは大きく息をすいこんだ。
「シロ、さあ行こう。新しい家にいっしょに行こう。新しい家は、回りに畑や野原がひろがっていて、お前といっしょにどこまでも走っていけるよ。恐い人間や大きな犬から私が守ってあげる。ずっとずっといっしょにいようね。長い間待ってくれてありがとう」
 一瞬、マリさんの手がぼくの手を力強くぎゅっとにぎった。
 ぼくは、はっと我に返った。
 と、同時に、岩橋さんの手の力が徐々に抜けていく。そして、スースー寝息をたてはじめた。
 ぼくは、眠った岩橋さんの顔をしばらくの間ながめてから手を布団の中にもどした。そして、眼鏡をかけなおし部屋の巡回にもどった。

 次の朝、岩橋さんの様子を見に行った職員が、あわてて飛び出してきた。
「岩橋さんの様子がおかしい。至急先生を呼んでください」
 みんながいっせいにばたばたしだした。ぼくも岩橋さんの部屋にかけこんだ。
 ぼくが見たのは、ベッドの中で眠っているような岩橋さんの顔だった。その顔は、昨日の夜と同じやすらかな顔だった。



                                      四




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