金木犀
学校の帰り、いつも通る公園で十人ほどの小学生が集まっていた。一足早く教室を出た同じ学級の子も幾人か混じっていた。
真ん中に黒っぽいジャンパーを着たおじさんが見える。
「千代ちゃん、見て。あれ、何してるんやろう」
ならんで歩いていた和ちゃんが、私の肩をたたいた。
「さあ?」
「行ってみよう」
私の返事など聞かないで、和ちゃんは私を置いて走り出した。
「あ、まって……」
私は、和ちゃんをおった。
子供達の輪の中にいるおじさんは、ニコニコ笑いながら「すごいやろ」といいながら、みんなに何かを見せていた。おじさんの横には、黒い自転車が止まっていた。荷台には木の箱がつまれていた。ボール紙のような物が立てかけてあり、色とりどりの花の形をしたきれいな飾りがとめてある。
「こんなブローチがすぐできるんやで。ほらこうするやろ……」
おじさんは両手を高く上げて、白い土のような物をこねていた。
「これをこの型に、はめるんや」
おじさんは、頭の上でこねていた物を小さな型に器用にはめた。
一 |
「これで、しまいや。ほんで、こうして取り出すと、ほら、もうできた。かんたんやろ。これを乾かして、好きな色を塗ったら、自分だけの好きなブローチが好きなだけつくれるんや。桃色の好きな子は桃色のブローチ、七色にしたい子は七色もできるんやで。ブローチだけやない、留め金さえかえたら髪飾りにもなるし、首飾りにもなるんや」
おじさんはぐるっとまわりながら、型から抜きだした物を、集まった子供達に見せていた。
「色を塗ったら、こんなんふうになるんや」
ボール紙を高く上げ、金や銀や珊瑚色を塗った花のブローチをみんなに見せた。
「きれい」
「きれいやなぁ」
「ええなぁ」
「ほしいなぁ」
そこここで、そんな声がした
「すごいな」
和ちゃんが私にいった。
「自分の好きなもんが、いっぱいつくれてしまうんやて……」
和ちゃんの目が大きく見開かれて、キラキラしていた。
「そうや、すごいやろ。こんなきれいなもんが、なんぼでも作れるんやで。きれいやろ、きれいやろ」
和ちゃんの声が聞こえたのか、おじさんが和ちゃんの方を見て、何遍もきれいやろと繰り返した。
「それも、この型と粘土で五十円や。なんぼでもつくれて、五十円は、安いで」
二 |
「お金、持ってへん」
前の子がいった。
「なんや、学校帰りかいな。かなんなぁ。よっしゃ、まってたる。はよ家帰って、お金もっといで。もうちょっとやったら、おっちゃんここでまってたるわ」
「まっててや、私、お金持ってくるさかい」
前の子が私を押しのけて走り出した。
「私も、持って来る」
集まっていた子供達がバラバラと走り出した。
「千代ちゃん、私らもお金もろてこ」
「え?」
「早よ、行くえ」
和ちゃんは私の手を引っ張って走り出した。
家に帰って、私はおばあちゃんに公園で会ったおじさんの話をした。
「ブローチ、なんぼでも作れるんやて」
「へぇ」
「ものすごォ、きれいやってん」
「そうか」
三 |
おばあちゃんは、古い浴衣の布で縫っている雑巾の糸をしごいた。
「おっちゃん、お金、もっといでっていわはった」
「千代ちゃん、本当にそれがほしいんか?」
おばあちゃんは、縫い物の手を休めて私の方に膝を向けた。
「ほしい……」
私は、小さい声でいった。
「ほんとか?」
私は首をかたむけた。私は、和ちゃんと別れるまで、ブローチがほしいと思ったことがなかった。
「ほら、やっぱりどっちでもええんやろ?」
「わからへん」
「よう考えて、それでもほしいもんやったら買うたげるさかい、もう一回ちゃんと考えてみ」
「そやけど、お金もろてくるって、和ちゃんと約束してしもたし……」
「ほら、やっぱりそういうことやろ。それは、本当に千代ちゃんがほしいと思てるんとちがうやんか」
「そやろか……」
私は、おばあちゃんと話しているうちに、もう、ブローチのことはどちらでもよくなっていた。
私は濡れ縁から飛び降りた。
「和ちゃんとこ、いってきまーす」
「お金は、ええんか?」
四 |
おばあちゃんの声に、私は、うん、とうなずいてかけだした。
「和ちゃん、あそぼー」
和ちゃんの家の格子戸をガラガラと開けた。
「あかん」
和ちゃんのお母さんの大きな声がして、私は足を止めた。
「そやけど、ほしいねん」
和ちゃんの大きな声もする。
「そんなもん買うて、どうするんや。どうせすぐに飽きるに決まってるやん」
「ほしいもんは、ほしいっていうてるやろ。みんなお金持ってくるっていうたはった」
「みんな、ってだれや?」
「そこにいた人みんなや。私だけ、買わへんかったら、のけもんになるわ。みんなきれいなブローチしてるのに、私だけないねん。そんなんいやや」
和ちゃんの声は涙声になっていた。
私は、そろそろと歩いて和ちゃんに近づいた。
「あ、千代ちゃん、いらっしゃい」
おばさんが、私に気がついてにっこりわらってくれた。
「千代ちゃんもいっしょやったんか?」
おばさんが、和ちゃんに聞いた。
五 |
「そうや、千代ちゃんもいっしょやった。千代ちゃん、お金もろてきたやろ?」
和ちゃんが振り向いて、私に助けを求めるように甘えた声でいった。
「わ、私……」
私はごくりとのどをならした。
「千代ちゃんは、おかあちゃんにお金もろてきたん?」
おばさんも聞いた。
「もろてきてへん」
私は、小さい声でいった。
「なんや。千代ちゃん、さっき約束したやんか。なにしてんの」
和ちゃん恐い声を出して私をにらんだ。
私はだまってうつむいた。
「千代ちゃんも、それほしかったん?」
おばさんが聞いた。
「ほしない……」
「和子、ほらみてみ、みんなほしがってるっていうのはうそやろ」
「ほんまや。ほしないっていうのは、千代ちゃん一人や」
「一人? へぇ、千代ちゃんは一人でもちゃんと自分の意見がいえるんやなぁ。意志の硬い子やなぁ。えらい、えらい」
六 |
おばさんは頭をなでてくれた。
(イシ? 石は硬いのに決まってる……。和ちゃんのおばちゃんは何ゆうたはんのやろう……)
私は首をひねって、ぼんやりおばさんの顔を見ていた。
「もう、ええわ。千代ちゃん、一人だけええ子になって、もう、知らんわ」
和ちゃんは走って家を出て行った。私は「まって」といって和ちゃんを追いかけた。
公園に近づくと、和ちゃんが急に止まった。
「みんな、こうたはるやろか?」
和ちゃんはしゃがみこんで、公園の生け垣から中をのぞきこんだ。
私も和ちゃんの横からのぞきこんだ。
その時
「お金、もろてきたか?」
見上げると、生け垣の上からおじさんが、私たちをみおろしていた。
「あかんかってん」
和ちゃんがさっと立ち上がっていった。
「この子がそんなんいらん、っていうたさかい、おかあちゃん、私にもお金くれやらへんかってん。おまけに意志の硬い子やって、おかあちゃんにほめられはったわ」
「みんなは、もう、こうて帰ったというのに、あんたは、いらんっていうたんか。意志の硬い子やなぁいうてほめられたんか……。へぇ、そうか。そら、残念やったな」
「ほんま、残念や。ほしかったのに……」
七 |
和ちゃんは顔をくしゃっとゆがめ、くるっと後ろを向いて歩き出した。
おじさんは、何もなかったように自転車のハンドルに手をかけた。そして、少しかがんだ隙に私をにらみつけた。
「人の商売、邪魔したらあかんで。おぼえときや。あんた、この先、ほしいもんができた時、泣き見るで……」
私はびっくりして、おじさんの顔をみつめた。
おじさんの顔は、陰の中でねずみ色だった。目が金色に光ったように見えた。
恐い目だった。
恐いのに、目をそらせることができない。
私は動けなかった。何かの呪いをかけられたような気がした。ほしいと思う物すべてに呪いがかけられたような……。
(ほしい物ができた時、私は泣くんや……)
そう思った。
「ほしい物なんか……ない……。泣くのは、いやや」
私は、つぶやいた。
すっと背をのばしたおじさんは、ニヤッと笑って黒い自転車に乗って去っていった。
秋になって、私はその日まで、恐いおじさんのことを忘れてしまっていた。
その日、おばあちゃんのお使いで、近所のお寺にお土産を届けに行った。帰り道、何かが私を包んだような気がした。何に包まれたのかと見上げると、青い空が高く高く澄んでいた。
八 |
「ああ、ええ匂いや」
私はつぶやいて目を閉じた。私を包んだのは、なつかしい感じのする透き通った香りだった。動くことを忘れてしまった私は、ずっとその場に佇んでいた。
ふっと、香りが消える。
私は目を開け、空を見上げる。
また、どこからか微かにひんやりとした風といっしょに、香りが私を包む。
(この匂いは空からおりてくるんや。この空をどこまで上ったら、この匂いにとどくんやろう……)
チリンチリン
自転車の警告音ががした。
「そんな道の真ん中でボーッと立っとたら、あぶないやろ!」
男の人が怒鳴りながら走りすぎた。
それでも、私はそこを動けなかった。
何時間そこに立っていたんだろう。
「千代ちゃん、どうしたん?」
おばあちゃんの声がした。
私は、おばあちゃんの顔を見てゆっくり笑った。
「千代ちゃんが道の真ん中で、おかしなったはるって、近所の子が教えてくれたんや。こんな所に立ったまま、どうしたんえ?」
九 |
「ええ、匂いや……」
「えっ? あ、ほんまやなぁ」
おばあちゃんも辺りを見回した。
「私、大好きや。これ、ほしいなぁ……」
「もう、かなんなぁ。この香りで、動けんようになってしもたんかいな?」
「うん。もうあかん」
私の膝から力が抜けていった。
「なに惚けたこというてるんや。そや、そんなに好きやったら、ええとこ連れていったげるわ」
「どこ?」
「ついといで」
おばあちゃんは、くたくたになった私の腕を抱えてさっさと歩き出した。
「ほら、ここや」
おばあちゃんが、連れてきてくれたのは、さっき私がお使いに来たお寺の裏側だった。白いかべの向こうに小さい柿色の花をいっぱいつけた木があった。
「さっきの香り、この花の香りや。ええ匂いのことを香りっていうんやで」
「香り?」
私は、息をむねいっぱいすいこんだ。
「うん。にてる」
「あたりまえや、さっきも金木犀の花の香りやったがな」
十 |
「金木犀の花?」
私は、もう一度柿色になった木を見上げた。香りには似合わない目立たない花だった。
「そうや、金木犀や。ええ香りやろ? おばあちゃんも、大好きや」
おばあちゃんも、香りを楽しむように大きな息をした。
目を閉じているおばあちゃんを見て、私はちがうと思った。この香りはさっきの香りとは全く別の物だと思った。
「ええ香りやなぁ。ここへ来たら、いつでもこの香りに出会えるで。ほしなったら、ここへ来たらええんや」
私は、急に悲しくなった。
さっきの香りが、私はほしい。この香りとは全然ちがう。
きっとあの香りは、私の物にはならない。そう思うと、涙がほろほろとこぼれてきた。
「どうしたん。泣くほど好きなんか?」
おばあちゃんが私の顔をのぞきこんだ。
「ちがうねん」
「何が?」
「わからへんけど、ちがうねん」
私は、涙でいっぱいになった目で金木犀を見上げた。
その時、金木犀の花と葉の闇から、私をにらんでいる黒い自転車のおじさんの目が見えた。
「あんた、泣き、見るで」
私の頭にあの声が聞こえた。
十一 |
私のからだが動かなくなる。呪いの言葉が頭の中をくるくるまわる。
しまったと、私は思った。ほしいと思ってはいけなかったんだ。ほしいと思うことに呪いがかかってたんだ。
私は震えながら、小さな声で「ほしい物はない。ほしい物はない」と何度もつぶやいた。
おばあちゃんが、私のほほを両手ではさんだ。
「なにいうてるんや?」
「ほしいもんなんか、あらへんねん」
おばあちゃんはじっと私の目を見て、不思議そうに首をかたむけた。
「ほしい物ができても、私はそれをもらうことができひんねん」
「なんで?」
「そういわはった。ほしいもんができた時、泣くでっていわはったんや。もらえへんから泣くんや」
「だれが、そんなアホなこというたんや?」
「ブローチ屋のおっちゃん」
「そのおっちゃんて、ちょっと前に公園で、お金もっといでっていわはった人か?」
うん、と私はうなずいた。
「そんなんうそに決まってるがな」
「そやけど、ほしいと思たあの香りは、どこにもあらへんやん。だれも私にくれやはらへん。おっちゃんのいうたことは、ほんとのことやったんや」
「この香りとは、ちがうっていうんやな……」
十二 |
おばあちゃんは、金木犀の木を見上げた。
「うん。あの時、私が、ブローチなんかいらんっていうたせいや」
私は、くちびるをかんだ。
「香りなぁ……。それも、漂う香り……。えらいもんがほしいと思うんやなぁ、千代ちゃんは……」
おばあちゃんはため息をついて、うんうんとうなずいた。
「本当にほしいもんって、そういうものかもしれへんなぁ。そやけど、ブローチ屋のおっちゃんとは、べつやで。おっちゃんがいわはったし千代ちゃんがもらえへんのとちがうえ」
「そやけど……」
「だれでもそうやっていうことや」
「私だけとちがうの?」
「本当にほしいもんは、なかなか手にはいらへんもんや」
「おっちゃんがかけた呪いとちがうの?」
「あたりまえや。そんなおじさんのいわはったことなんか忘れなあかん
私は振り返えってもう一度、金木犀の葉陰に目をやった。その中には、黒い自転車のおじさんの目はなかった。
「アホなこという大人がいるもんや。帰ろ」
おばあちゃんはちょっと怒ったようにいって、くいっと私の手を引っ張った。
「うん」
手をつないで私たちは歩き出した。おばあちゃんの手はあたたかく、私を守ってくれているのが分かった。それでも、私はあの目が気になっていた。まだ、私を見ているような気がする。背中が冷たかった。
十三 |
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